昭和人の恋ものがたり

団塊世代の、じじいの妄想話です。

[淫(あふれる想い)] 舟のない港 (二十三)男が飛び起きた。

 男が飛び起きた。いつの間にか寝入っていたようだ。
「ああ、夢だったのか」。おもわず口に出た。
なまめかしい夢だった。
〝ドアを開けるとミドリさんが来て、びしょ濡れのままおれの胸に飛込んできた……〟
「あれは、あの夜のことだ。
しかし、どうしてミドリさんの顔に。
そうか、立候補すると言ったからか。馬鹿な、こんな俺にそんな資格があるものか」
 男は、大きく伸びをするとベッドから飛び出した。

 気のおもい毎日がつづいた。
辞表をだす勇気ももてず、悶々とした日々が繰りかえされた。
相変わらず部長の嫌みなことばや、かつての同僚からの憐憫を受けていた。
そんな煩わしい日々のある退社時に、雨宿りをしているミドリに出会った。
あのときの事を思い出し、また平井道夫への傘のお礼もあって、「やあ!」と、声をかけた。

 肩を落とし暗く打ちしおれていた瞳が、男の声に明るさを取りもどした。
男はひとつ傘のなかで、あの夜のように快活に笑い興じた。
あの喫茶店で、同じようにコーヒーを注文した。
そしてミドリから、兄の道夫を待っていたと聞かされた。
「それはいかん。すぐにも引き返そう。彼、待っているだろう」という男に、
「いいんです。」と、ミドリは頬を染めた。
その乙女のごとき恥じらいの仕種に、男はあの夢を思い出しドキリとした。

「しかし、平井くんが…」と、言いかけた男のことばをさえぎるようにミドリはキッパリと、
「いいんです、そろそろ兄ばなれをしなくてはいけないんです。
兄の交際あいての方にも悪いですし」と、交際相手もそこにくるのだと答えた。
「そうか、そうだね。平井君のデートの邪魔になるかも。
よし、そういうことなら、今夜はぼくに、エスコートさせてよ。
どうせこのまま帰っても、ひとりで食事をするだけだから。
ご馳走するよ、ミドリさん」

 そんな男の誘いに、ミドリは明るく答えた。
「ぜひ! 御手洗さん 、そのあとでお酒もご馳走になりた…。
いやだ、あたしったら。ごめんなさい、調子にのりすぎて。
普段はこんなじゃないんですよ」
「いいよ、いいよ。どこでもお姫さまのご希望におこたえしますよ。
軽く食事をしてから、ナイトクラブにでも行きましょう。

それから、良かったら武と呼んでくれませんか? 
女性には、名前で呼んで欲しいなあ、やっぱり。
特に、ミドリさんのような可愛いひとには」
 男にとって久しぶりの楽しい語らいだった。
レストランにという男にたいし、ミドリは
「ここですませましょう。
ここのカレーライス、とっても美味しいんですよ」 と、こころ遣いをみせた。
 財布のなかみを頭のなかで数えていた男には、ありがたいことばだった。