男が飛び起きた。いつの間にか寝入っていたようだ。
「ああ、夢だったのか」。おもわず口に出た。
なまめかしい夢だった。
〝ドアを開けるとミドリさんが来て、びしょ濡れのままおれの胸に飛込んできた……〟
「あれは、あの夜のことだ。
しかし、どうしてミドリさんの顔に。
そうか、立候補すると言ったからか。馬鹿な、こんな俺にそんな資格があるものか」
男は、大きく伸びをするとベッドから飛び出した。
気のおもい毎日がつづいた。
辞表をだす勇気ももてず、悶々とした日々が繰りかえされた。
相変わらず部長の嫌みなことばや、かつての同僚からの憐憫を受けていた。
そんな煩わしい日々のある退社時に、雨宿りをしているミドリに出会った。
あのときの事を思い出し、また平井道夫への傘のお礼もあって、「やあ!」と、声をかけた。
肩を落とし暗く打ちしおれていた瞳が、男の声に明るさを取りもどした。
男はひとつ傘のなかで、あの夜のように快活に笑い興じた。
あの喫茶店で、同じようにコーヒーを注文した。
そしてミドリから、兄の道夫を待っていたと聞かされた。
「それはいかん。すぐにも引き返そう。彼、待っているだろう」という男に、
「いいんです。」と、ミドリは頬を染めた。
その乙女のごとき恥じらいの仕種に、男はあの夢を思い出しドキリとした。
「しかし、平井くんが…」と、言いかけた男のことばをさえぎるようにミドリはキッパリと、
「いいんです、そろそろ兄ばなれをしなくてはいけないんです。
兄の交際あいての方にも悪いですし」と、交際相手もそこにくるのだと答えた。
「そうか、そうだね。平井君のデートの邪魔になるかも。
よし、そういうことなら、今夜はぼくに、エスコートさせてよ。
どうせこのまま帰っても、ひとりで食事をするだけだから。
ご馳走するよ、ミドリさん」
そんな男の誘いに、ミドリは明るく答えた。
「ぜひ! 御手洗さん 、そのあとでお酒もご馳走になりた…。
いやだ、あたしったら。ごめんなさい、調子にのりすぎて。
普段はこんなじゃないんですよ」
「いいよ、いいよ。どこでもお姫さまのご希望におこたえしますよ。
軽く食事をしてから、ナイトクラブにでも行きましょう。
それから、良かったら武と呼んでくれませんか?
女性には、名前で呼んで欲しいなあ、やっぱり。
特に、ミドリさんのような可愛いひとには」
男にとって久しぶりの楽しい語らいだった。
レストランにという男にたいし、ミドリは
「ここですませましょう。
ここのカレーライス、とっても美味しいんですよ」 と、こころ遣いをみせた。
財布のなかみを頭のなかで数えていた男には、ありがたいことばだった。