昭和人の恋ものがたり

団塊世代の、じじいの妄想話です。

[淫(あふれる想い)] 舟のない港(七十)やっと、君の言葉に返ったね。

「やっと、君のことばに返ったね。
どうも、今までの君のことばは固苦しくていけない。
嬉しいよ」
 相変わらずの書きことばだった。しかし麗子には、昔の覇気ある男にみえていた。
「あら、ほんと。久しぶりね、こんな風に気軽に話すのは」

 小ぢんまりとした1室にふたりはいた。
いつしか、恋人時代のふたりに戻っていた。
麗子は、男の肩にしなだれかかりながら、〝いままでは肩ひじをはっていたの
ね〟と、久しぶりに心のゆとりを感じていた。
「どう、今の生活は?」

 男にしてみれば、社交辞令のようなものだった。
しかし麗子には、痛烈な批判のことばに聞こえた。
「どういう意味なの!」。キッと、男をにらみつけると体をもどした。
あまりの剣幕に、男はたじろいだ。

「いや深い意味はないよ、そんなに尖るなよ。
そういうところは、昔と変わらないなあ。安心したよ、たしかに麗子だ」
 麗子は、男に他意がないことを知ると、また身体を男にあずけた。
「麗子」
 そのことばが、合図かのようにどちらからともなく、唇を合わせた。

窓からの月明かりに照らし出されるその肌は、きめこまかく滑らかで吸い付くかのごときその肌は、生活に疲れたミドリの肌にはない、輝きがあった。
しばしの間、男は見とれていた。
「すばらしい!」
 思わず出た男の本音だった。

そしてそのことばは、麗子の耳に心地よくとどき、ますます麗子を燃え上がらせた。
勝ちほこったような麗子のことばだった。
麗子が思いえがいていたシーンが、いま、ここにあった。
〝男が私にひれ伏している〟。麗子は、言いしれぬ法悦感にひたった。
たしかに夫も、「お前はの身体は、素晴らしい!」と賞賛してくれる。

しかし、男のことばほどに燃え上がらないのはどうしたことか? 
男と夫の年齢差だけではない。
飾り物としてあつかう夫と、生身の麗子としてあつかう男との差、とでも言うべきか。
「どうしたの! 時間のしんぱいは無用よ。
主人は出張中よ、心配は要らないわ!」

 麗子のそのことばを耳にしたとき、男はやり場のない憤りをおぼえた。
〝俺は、旦那の代用品なのか!〟。
そしてまた、〝俺はいったい何をしているんだ。
ミドリは、俺を信じてくれているのに。
灯りのない部屋にもどるんだぞ〟

 男は、すぐにも帰りたいと思った。
ときに罵りあいながらも、ミドリには男なしの生活はあり得ない。
それは、痛いほどに感じていた。
その自負心があればこそ、ヒモ同然の生活をつづけている男だった。
「なあに、景気さえ良くなれば……」

 せいいっぱいの虚勢をはる男に、悲しげな目をしつつも「これでいいのよ!」と、うなずくミドリだった。
〝俺に必要なものは、ミドリからの愛情だ〟。
しかしそう思いつつも、空腹時にさしだされたご馳走(麗子の色香)に、抗することはできなかった。

[淫(あふれる想い)] 舟のない港 (六十九)あのときのぼくは、とにかく若かった。

「あの時のぼくは、とにかく若かった。
愛しているがために、君に満足な生活を与えようとしすぎた。
愛しすぎたがために、経済的ゆとりにこだわりつづけたようだ。
それがために、君を待たせつづけてしまった。

きみにとっては、不安な日々を送らせてしまった。
悪かったと、思っている」
 まるで、書きことばのごときことばの羅列だった。
「いいえ、あたしも悪かったのよ。そんな貴方の気持ちに気づいていれば……」
 気持ちのこもっていないにも関わらず、麗子はそのことばを受け入れてしまった。

 そっとにぎられた手に、夫には感じられない熱いものを、麗子は感じた。
愛情の表現を物品でしかできない夫に感謝しつつも、不満が残った。
仕事の激務さと年齢的なものもあるのだろうが、性生活は満足できるものではなかった。
淡泊な性格であることも麗子には不満だった。

 麗子からの要求に渋々に応じる夫であった。
しかし、月にいちどでは、麗子の疼きはおさまらなかった。
といって、見知らぬ男との浮気は不安だった。
セールスマンとの浮気が発覚し、離婚騒動になったという噂話を喜々として話
す夫人仲間がいる。
ホストクラブに繁雑に出入りし、ホストに入れ上げた挙げ句に離婚したという夫人もいた。

 いまさら、この生活を壊すつもりはない。
重役夫人としての心地よさは、なにものにも代え難い。
家事いっさいを家政婦にまかせての、悠々自適の生活であった。
夫の会社の夫人連の集まりでも、その美貌も手伝って、さながら女王然とふるまった。

 しかし、性生活の不満はくすぶりつづけた。
麗子は、そんな悶々とした思いの日々を送っていたのだ。
そしてそんなときに、男を見かけた。
身をくずしているとはいえ、あの、激しくそして熱く燃えさせてくれた男に、愛されているであろうミドリに、激しい嫉妬心をおぼえた。

といって、麗子から男を求めるのはプライドが許さない。
なんとしても、男をひれ伏させたかった、後悔をさせてやりたかった。
 そしていま、男は麗子の軍門にくだろうとしている。
麗子にとって、満足できる結果のはずであった。
しかし、麗子の気持ちのなかに予期せぬ感情がうず巻いていた。

侮蔑の感情だけがあるはずであった。
憐憫の情であるはずだった。
麗子の思いのなかに、愛おしさがこみ上げていた。
今すぐにでも、男の胸に飛び込みたいという衝動にかられているのだ。
身体の火照りを抑えられずにいたのだ。 

[淫(あふれる想い)] 舟のない港 (六十八)まさかのあのバーでの再会。

 まさかのあのバーでの再会。見るからに落ちぶれている。

ブランド物のスーツに身をつつみ、イタリアの革靴をはいて、颯爽と取引先を訪れていた男ではなかった。

吊り下げの二着で○○円の、安物スーツが似合う男になっていた。

オーダーメイドのカッターシャツではなく、アイロンはかかっているものの、明らかに乱雑に積み上げられていたであろう既製のカッターシャツだ。


〝こんな安い男になってしまったの? 落ちぶれたものね〟
〝あたしを捨てた男の行く末がこれ? なさけないものね〟
 男のとなりに陣取って、思いっきりの笑顔を与える麗子だった。

夫のいる空間で、カエルをいたぶる蛇のごとくにふるまってやるつもりの麗子だった。ところがこちらが闘う体制をととのえるまえに、相手は尻尾を巻いて逃げ出してしまった。


「彼が君のお相手だったのかい?」
 勝ち誇った声で、紳士が麗子に問いただした。
「ええ、まあ……。でもあの頃とはまるでちがうわ」
 そう言うのが精一杯だった。

このみすぼらしい男が、麗子から結婚を迫った男だと知られてしまった。

屈辱以外のなにものでもなかった。


「お若い後添えさんで……」
「こりゃまた芸能人かと見まちがえますなあ」
「ほんとにステキなお方ですこと……」
 パーティで「家内です」と紹介するたびに、賞賛された、うらやましがられた。
 紳士の後ろに付き従うような麗子ではない。

むしろ紳士を従者のように扱いながら、そうそうたる名士のあいだを泳ぎまわる錦鯉だった。

品評会で金賞をうけた、紅白の模様が際立つ國魚と称される錦鯉だった。

それがいま、よれよれの風采の上がらぬかつての思い人を見られてしまった。


「ミタちゃんをご存じなの?」
 ことばを失っている麗子に、ママさんが声をかけた。
「いまはね、広告会社の課長さんなのよ」。

精一杯の援護射撃だった。課長などという役職にはついていない、ただの平社員だ。

大口の取引先である、スーパーマーケットの店長に気に入られている、新入社員にすぎない。

しかし女の勘で、彼と麗子が訳ありのふたりだということがすぐにわかった。

そして紳士がそのことを、表面上は許容しているように見えて、実のところは棘として感じていることも。

[淫(あふれる想い)] 舟のない港 (六十七)麗子は、平凡な毎日に

 麗子は、平凡な毎日に倦怠感を感じはじめていた。

安定した日々が、つまらなく思えていた。

そんなおり、偶然にガソリンスタンドで働く男を見かけた。

後日、男のことを、「店長なの?」と尋ねたところ、アルバイトだと聞かされ、愕然とした。あまりのその変わり様に、麗子自らが侮辱されたような気がした。


 麗子にしてみれば、捨てられたも同然であった。

ことの真相が知りたくなり、そのスタンドに出むく途中に男を見つけたのだ。

「これから仕事だ」という男を、強引に呼びとめたのだ。

しかし男をいざ前にすると懐かしさが募り、またいまの生活に刺激をもとめていたこともあり、となり町まで出かけた。

おしゃれそうなこのレストランは、リサーチ済みだった。

いつか夫とともに立ち寄るつもりの場所だった。


 レストランを後にして、麗子は車を動かした。

車中の時計は八時すこし前を指していた。

ふたりとも、このまま帰る気にもなれずにいた。

男の、つぶやくような「ひと休みするかい?」ということばに、思わず麗子は、「そうね、時間もはやいし」と、こたえてしまった。


 ばつが悪くなった。その気がなかった、とは言い切れない。

といってその気があった、とも言えない。

万が一にそんな雰囲気になればその寸前でやめる、それが麗子の思いだった。

ミドリに対する嫉妬心もあった、男への恨み辛みもあった。

その気にさせて、はげしく麗子を求めてくる。


 そんな男にたいし冷然と「あたくしには夫がいますのよ」と告げる算段だった。

土下座せんばかりに求める男を、まるで奴隷のようにあつかう。

上から見下ろして、あの夜のことを謝罪させて、それこそヒールでもって男の体を蹂躙する。

SMの世界すらかわいらしく思えるほど、男を蹂躙してやりたかった。

[淫(あふれる想い)] 舟のない港 (六十六)ときどき、主人と来るところ

「ときどき、主人と来るところなんですの。
とってもおいしい肉料理を食べさせてくれますわ。
あら、ご心配なく。主人はわたくしの行動を充分にわかってくれますわ。
いつも言ってますのよ。

『彼のおかげで、君を妻に迎えることができた、感謝している。
どこかで会ったら、この店でご馳走してやりなさい』と」
 しかしこのレストランの売りは肉料理ではなく、採れたてのオーガニック野菜だった。
麗子にとってもはじめてのレストランであるらしく、しきりにメニュー表に目をおとしていた。

緑のブロッコリーにきゅうり、赤いトマトに赤ピーマンそしてニンジ。
黄色のコーンにジャガイモ、紫の茄子にキノコ類。
そして葉物類と、種々雑多な食材をつかっての料理となっている。
最後にデザートとして用意されていたのは、真っ赤なリンゴだった。
希望をすれば、イチゴやキウイにバナナまで用意してあるいうことだった。

 男は、やり切れない気持ちだった。
すぐにも逃げ出したい心境だった。
麗子を思い出すことはさすがに少なくなっていたが、幸せそうな姿を目の当たりにして、自分自身にたいする怒りを、そして後悔をおぼえていた。

自分を捨てた女に、いいように遊ばれているようで、どうにも我慢できなかった。
『彼のおかげで…』という、紳士のことばにもとげを感じた。
 しかし、食事が終わるころには、紳士のことばからではなく、真実なつかしさで男
を招待したことがわかった。

〝なぜ、こんなにも離れた場所で〟という思いが湧いたが、それ以上は考えなかった。
やり場のないむなしさを感じていたのだ。
むかしの恋人ではなくいち友人としての扱いに、一抹の淋しさを感じてもいた。
男にとっては残酷な仕打ちだった。
〝いまの俺を、憐れんでいるいるのか〟。男の怒りは爆発した。
帰りの車中、男の目がギラギラとしていた。
麗子のお高くとまっている様が許せないのではない。
わざわざとなり町近くのレストランに赴いたということがなにを意味するのか。

男でなくとも、だれの目にもわかることだ。
一時の気の迷いとでもいうべきなのは、火を見るよりあきらかだ。
それが男には許せなかった。
行きずりの男と接するがごとき扱いをされたことが、なにより許せなかった。

友人というならそれでもいい。
すくなくともあのバーにおける麗子は、夫である紳士がいたとはいえ、彼にたいするリスペクトがあった。
だから彼はいたたまれなくて、すぐにバーを出たのだ。

[淫(あふれる想い)] 舟のない港 (六十五)ミドリが帰るまえにもどればいいさ

〝ミドリが帰るまえにもどればいいさ〟。
〝どうせバイトだ。辞めさせられても、また探せばいい〟。
そう、自分を納得させると、麗子のあとにつづいた。
駐車場に置いてあった車は、かつての男にも手の届きそうもない高級車だった。
左ハンドルの、レアな車だった。

 本革のシートは、快適だった。
外気から遮断された車中には、懐かしい麗子のにほいが充満していた。
しかしもう男はその匂いを忘れてしまっていることに気づいていた。
しかし覚えている、と思いたかった。

 繁雑な通りを走りぬけ、車は高速道路にはいった。
住みなれた町から離れることに、多少の不安をおぼえる男だったが、口にすることはなった。
男は目をとじて、麗子との久しぶりの逢瀬をたのしんだ。

サクスフォンの柔らかい低音が車内にひびいている。
〝こんな趣味があったかな?〟
「主人の趣味ですのよ、この音楽」
 男の疑問にこたえるかのごとくに、口にした。
まるで過去に浸っている男を、現実に引きもどすかのような、またしても蜂のひと刺しだった。

 1時間も走ったろうか。
高速道路をおり、国道沿いの洒落たレストランの駐車場に車はすべりこんだ。
「ガランガラン」と、重々しい扉を開けると、レジに立つウエイトレスに奥まった席へと案内された。
夕陽がはいりこむ窓際にはすでに先客がおり、すべて埋まっていた。

木材の質感を強調した壁には、ウォールランプがふたつ設置されている。
テーブルの上にキャンドルが置かれ、空調の流れによって炎が揺らがぬようにガラスのカバーがある。
麗子のかおに陰影がうかび、妖艶さが強調された。

きょうは普段にもまして化粧に気を遣っている。
覚悟めいたものが感じられるが、正直のところ、いまの男にはそのことを受け止めるだけの余裕がない。
麗子にはまったく興味のない野球関係を話題にした。

選手個人のプライベート話ではなく、チーム成績や監督の采配について話しつづけた。
麗子はあくびを隠すことなく男にみせ、話題を変えてくれと言わんばかりだった。しかしそれでも男は、なおもつづけた。
男のプライベートに話を向けさせないように、必死の思いでしゃべりつづけた。

[淫(あふれる想い)] 舟のない港 (六十四)薄寒い秋の夕方、

 薄寒い秋の夕方、ミドリは信じられない光景を見た。
美容院の帰り道、なにげなく見やった喫茶店のボックスに、男と麗子の姿を見たのだ。
麗子を知らぬミドリだったが、はっきりとわかった。
男の、その女性を見る目で直感したのだ。
いや、男の目の色がミドリに見えるはずはない。
しかし、はっきりと感じられた。

 どことなくオドオドとした態度で落ちつかない。
タバコの火を点けては消し、まくた新しいタバコに火を点ける。
せわしなくコーヒーを口にしては、視線をはずしていた。
ミドリは、見てはならないものを見てしまったように思え、足早に立ち去っ
た。
「いいえ、あの人ではない。いまはまだ、アルバイトの時間だ。
人ちがいに決まってる」。そう言い聞かせながら、夜の戦場にいそいだ。

「苦労されているようですわね。いまは、どうなさっているの? 
貴方のことだから、バリバリやっていらっしゃるのでしよう?」
 静かな口調のなかに、〝これが、過去にあれほど愛した男なのか〟
自嘲の色が見える、そして侮蔑のいろが感じられる。

 男は、答えることばを持っていなかった。
自信にあふれていた男を見つづけてきた麗子に対し、現在のおのれは、あまりにも惨めすぎた。
「きみは幸せそうだね」。精一杯のことばだった。
「いぢわるな質問ですのね。わたくしに言わせれば、ミドリさんの方がよほどにお幸せですわ」

 チクリチクリと男を突きさす、蜂のいちげきだ。
あきらかに男の現状を知っている、男にはそう感じられた。
〝あのバーで感じたことはなんだった? 
昔の傲慢さも、嫌みをいうくせも直っていない〟
 
「好きな殿方に愛されて暮らすことが、女にとってはいちばんの幸せですのよ」
 そのことばに、男は視線を上げた。
すがるような目に、と、男にはそう見えた。
、かつて男に見せた拗ねるような目だと感じた。
男は、瞬時、昔に戻ったような錯覚をおぼえた。

「そんなものですかね、いつも喧嘩ばかりですよ」
「そう、羨ましいわ。仲がおよろしいからの喧嘩でしょ? 
愛していらっしゃるのね」
(いや、ちがう!)と、言いかけたことばを男は飲みこんだ。

「わたくし、この先に車をおいてありますの。
お時間があるようでしたら、郊外のきれいな空気に当たりませんこと?」
 男には、麗子の真意がはかりかねた。
しかし、誘いをことわる理由もないように思えた。